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Channel: 西川隆範:シュタイナー教育随想
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隆範伝−前篇

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 私は昭和癸巳年(長流水)立春、京都(東本願寺と五条大橋の中間)で生まれた。振り返ればまことに恥ずべき点の多い歩みであったが、別の人生、今まで出会ってきた人々に巡り会わない別の人生というのは望まない。ここまで生き延びてこられた幸運を思うと、私に付き添う神霊の働きを想わざるをえない。
 父(大正12年生まれ)は薬学を修めたが、塗料会社の研究員をしていた。母(昭和4年生まれ)は亀岡から嫁いできた。母の叔父は透視者であった。母の弟が音楽教師と結婚し、私はその叔母にピアノを習うため亀岡に通った(私には妹がいたそうである。母と毎月、生駒山の水子地蔵に通った。母は命日を覚えていなかったので、後日、鎌倉の宗教家に相談したら、「西川ヒカル児之神霊・昭和29年6月21日帰幽」にしようと言われた。のちに西川家の菩提寺の住職から「智光嬰女」という戒名をいただいた。私自身にも昭和60年6月30日に妊娠3週間で流産した水子がいて、まず高野山で供養してもらい、のちに私が妹に合わせて「恵光嬰女」と名づけた。それからだいぶ経って善通寺でこの子の供養を頼んだとき、たまたま80名あまりの僧が四国巡礼中で宿坊に泊まっておられ、計100名ほどの僧が読経してくれた理趣経で成仏したと感じた)。
 宋から帰った道元が13年間閑居した深草(伏見稲荷大社から歩いて10分ほどのところ)で、小学校入学からの時期を過ごした。「弘法救生」を思いとして「重擔を肩に置ける」がごとく感じていた彼が「弘通のこゝろを放下」して「しばらく雲遊萍寄」しようとした地である。東本願寺の斜向かいに住んでいたころは、浄土真宗寺院の経営する幼稚園に通った。小学校は公立だったが、中学校は再び浄土真宗の大谷中学である。高校は、美術コースが併設されている日吉ケ丘高校。通学途中によく東福寺の雲水に出会った。大学紛争の時代で、高校もその影響を強く受けていた。芸術的な方面で身を立てたいと思っていた。大学に行こうとは考えておらず、渡欧しようと思って放課後に関西日仏学館に通ったのだが、それは1ドル360円の時代(308円になるのは1970年代)には果たすことができず、一浪して上京、仏文科に通うことになった。中学時代・高校時代は、浄土思想と般若経典にのめりこんでいた。
 祖父は呉服商で、宮津出身の祖母は幼年の私を奈良の真言律宗寺院によく連れていった。真言律宗は南都七大寺の一つ西大寺を総本山とする小さな宗派であるが、奈良の法華寺、海龍王寺、元興寺極楽坊、般若寺、京都府の浄瑠璃寺、金沢文庫の称名寺、鎌倉の極楽寺などを擁する。
 20歳のとき初めて高野山に登り、これが決定的な体験となった。密教学の方向に進もうと考えて、西大寺の松本実道長老に相談したら、出家を勧められた。こうして1976年3月6日、西大寺で得度した。そして、高野山宝寿院で加行に入り、宝寿院門主の蓮華定院・添田隆俊僧正から伝法灌頂を受けて、空海の血脈に連なった。
 その後、東京のカルチャー・スクールで高橋巌氏の講座を聴くことになる。シュタイナーが述べる死後の人生は私の抱いていた疑問に答えるものだったし、彼が語る宇宙史は私の求めていたものだった。勉学時間をかせぐために大学院(宗教学)に進んだ。
 鎌倉での高橋巌氏の勉強会に参加し、1979年からは鎌倉雪の下に住んだ。高橋巌氏・高橋弘子夫人・子安美知子女史・上松佑二氏・横尾龍彦氏・笠井叡氏ら、いまでは互いに袂を分かっている人々がつどっていた、日本の人智学運動の蜜月期である。私の記憶ちがいでなければ、高橋氏は戦後、あるプラトン研究家から薔薇十字団について研究するよう勧められた、と聞いたように思う。高橋氏が軽井沢で正田美智子さんと知り合いになられる話も興味深かった。
 1982年春からドルナッハの隣町アーレスハイムに間借りしてゲーテアヌム精神科学自由大学で1年、それからシュトゥットガルトに移ってクリステンゲマインシャフト神学校で2年学び、1985年に帰国した。1990年からベルンのシュタイナー幼稚園教員養成所の講師を6年間つとめた。
 道元は深草に僧堂を建てるにあたって、「思ひ始めたる事のならぬとても、恨みあるべからず。ただ柱一本なりとも立てゝ置きたらば、後来もかく思ひ、くはだてたれども成らざりけりと見んも、苦しかるべからずと思ふなり」と述べている。「我等後代亡失不可思之」だ。

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